4. 夢中でつくりつづけた

岩田

ゲーム&ウオッチをつくっていた頃は
「パソコン」という言葉がまだ生まれていないですし、
ハードディスクもない時代でしたよね。

山本

はい。ですから、コンピュータに
まず8インチのシステムディスクを入れて、
次にデータ用のフロッピーを入れて
動かしていた覚えがあります。

岩田

で、そうやってゲーム&ウオッチの試作品をつくって、
そのあとはどういう工程だったのですか?

加納

わたしのほうは完成したゲーム画面の液晶用原稿を
シャープさんと打ち合わせしてから、入稿しました。

岩田

ロム出しをして製品になるまで
どれくらいの時間がかかったんですか?

山本

2ヵ月くらいでしたね。

岩田

ゲーム&ウオッチは
ひと月にほぼ1作のペースで出ていましたから、
加納さんは毎月のようにデザインをし、
出石さんと山本さんは1ヵ月交代でソフト開発をする、
そういうことの繰り返しで
まるでところてんが押し出されるように
ゲーム&ウオッチが発売されていったんですね。

加納

そのようなことができたのは、
わたしたちだけでなく、当時の開発一部のメンバーや
宇治工場の生産能力が向上していたことにも
ずいぶん助けられたように思います。

出石

そうですよね。
いろんな人たちがたくさん集まって
みんなが一丸となって、うんうん言いながらつくりましたし、
だから「僕がこれをつくった」と、
関わったみんなが言えたような感じがしますね。

岩田

ちなみに、この機会に調べてもらったんですけど、
ゲーム&ウオッチの販売数は
国内で1287万個、海外では3053万個、
合計4340万個だそうです。

出石

・・・その数字、初めて知りました。

一同

(笑)

出石

当時は、そのような売上げの数字は
開発現場まで伝わってこなかったんです。

岩田

でも実際、この商品は
世界中でたくさんの人たちに受け入れられたわけですけど、
加納さんはどのタイミングで
追い風が吹きはじめたと感じましたか?

加納

追い風ですか・・・。
それはなんとも・・・やっぱりむかしのことですし。
でも、強いて言うと(※18)でしょうか。
このタイトルをきっかけにブームになったような気がします。
ただ、僕らとしては、これが何個売れたかも知らずに、
ひたすら新しいタイトルをつくりつづけていたんです。

※18

『パラシュート』=ゲーム&ウオッチのワイドスクリーンシリーズの第1弾ソフト。ヘリコプターから落下してくるスカイダイバーを救命ボートで受け止めるゲーム。1981年6月発売。

岩田

なるほど。何個売れたかを気にするよりも、
次のものをつくらないといけなかったんですね。

出石

とにかく、当時はつくり終えたものよりも
次のソフトのことで頭がいっぱいだったんです。

加納

「あれの売上げ、どうなりました?」と聞くよりも、
もう次のものに取りかかっていましたから。

出石

とにかく思いついたアイデアは
できるだけ早くモノにしたいという気持ちでしたね。

岩田

とは言え、何個売れたとか、
細かい販売数のことは知らなくても、
たくさんの人に受け入れられているという実感はあったんですよね?
全部で59タイトルも出たわけですから。

出石

さすがに街に出ると、
外で遊んでいる人たちの姿をよく見るようになりましたね。

山本

それに、クリスマスの時期は、
応援販売にも行きましたし。

加納

そうそう、みんなで行きました。
店頭に立って応援販売をやったこともありましたし。

岩田

あの時代は、この最前線で開発していた人も、
クリスマスの時期には、応援販売に出るのが
当たり前だったんですよね。

出石

ええ、そうです。

山本

で、「山本さんはこのお店に行ってください」と言われて、
僕は行きたくないなあと思ったりして。

岩田

それはどうしてなんですか?

山本

売り場担当の人から
「包むのがヘタねぇ」と言われてしまうんです。

岩田

あははは(笑)。

山本

慣れてないので当然なんですけど・・・。

加納

でも、包むのもそうですけど
とてもいい勉強をさせてもらいました。

山本

そうですね。

岩田

包むこともそうですけど、実際にお客さんがいらして、
お客さんがどうやって商品を選び、買われるのか、
その光景を目の当たりにすることも、
ものすごく勉強になりますよね。

加納

そう思いました。
いまでもハッキリ覚えているんですけど、
おばあちゃんとお孫さんの2人が来店されて、
お孫さんが「ここや、これがほしい」とおっしゃったんです。

岩田

お孫さんはゲーム&ウオッチがほしいと。

加納

ええ。ところがおばあちゃんは
「これ、高くて買えへん」とおっしゃって・・・。

岩田

ゲーム&ウオッチは5800円くらいしましたし、
当時のおもちゃとしては高額な部類に入りましたから。

加納

そうなんです。だからこそ、
それだけの価値のある商品をつくらないといけないと、
売り場に立ちながら痛感させられました。
そういうことは、売り場に立ってみないとわかりませんし、
お客さんの反応や売り場の空気に触れられたのは
すごく大きな経験になりましたね。

岩田

その経験は次のものづくりに絶対に活きていくんですよね。

加納

ええ。もっといいものをつくらないといけないという、
モチベーションにもなったと思います。

岩田

ちなみに、みなさんそれぞれの
思い出の1本はどのタイトルになりますか?

山本

わたしは(※19)です。
先ほども言いましたけど、みんなでアイデアを出しても、
最終的に横井さんのアイデアが採用されることが多かったんです。
ところが『タートルブリッジ』は
僕のアイデアが採用されたタイトルだったんです。

加納

あれは名作でしたね。

※19

『タートルブリッジ』=ゲーム&ウオッチのワイドスクリーンシリーズの第8弾ソフト。水面に浮かぶカメのコウラをつたって、荷物を運ぶゲーム。1982年2月発売。

山本

ありがとうございます(笑)。
けっこう力を入れてつくりましたから。
でも、ランプの試作品のときはすごく面白いのができたんですけど、
なかなか調整がうまくいかなくて、
製品化したときは、オリジナルほどではなかったんです。

岩田

製品版では微妙な操作感が再現できなかったんですね。

山本

ほんのちょっとした微妙なさじ加減なんですけど。
それでも、自分としてはこれがすごく印象に残ったゲームです。

岩田

加納さんは?

加納

僕は『パラシュート』ですね。
売上げ本数的にもかなりよかったと思いますし。

岩田

『パラシュート』はワイドスクリーンになって
最初に出たタイトルだったんですよね。

加納

画面が見やすくなりました。
で、『パラシュート』をつくりながら
その次の『オクトパス』に入っていく頃が
すごく楽しかったんです。

岩田

『オクトパス』は『パラシュート』の発売から
ひと月もたたないうちに出ていますね。

加納

ほとんど同時進行のようなかたちでした。

出石

ソフト開発は、僕が『オクトパス』、
山本さんが『パラシュート』を担当していたんですけど、
加納さんはとても楽しそうに描いてましたよね。

加納

ああ、そうでした。
「タコの目はこんなんで、外国の人に通じるんやろうか」
とか言ったりしてね(笑)。
さらにアラームで「蛸の八ちゃん」(※20)みたいな絵を描いたりして、
すごく楽しんでつくっていた記憶がありますね。

※20

「蛸の八ちゃん」=1931年に発表された、「のらくろ」の作者、田河水泡氏のマンガ作品のひとつ。タコといえば「八ちゃん」を連想するシニア世代は多い。

任天堂ホームページ

ページの一番上へ