1. はじまりは、つなぎを着たお兄さん

岩田

今回は、『マリオカートWii』の開発を担当した
3人の方たちからお話を訊いてみることにします。
『マリオカート』もシリーズを重ねて、6作目になります。
第1作目の『スーパーマリオカート』(※1)
16年前の1992年に発売されました。
その当時、HAL研究所にいたわたしは
家になかなか帰れないくらい仕事が大変な状態であったにも関わらず、
発売日にお店で購入して、無理矢理時間を作って
遊んでいた思い出があります。
それではまず、紺野さんから自己紹介をお願いします。

※1

『スーパーマリオカート』=シリーズ1作目。スーパーファミコン用ソフト。1992年8月発売。

紺野

情報開発本部制作部の紺野です。
『マリオカートWii』では、プロデューサーを担当しました。

岩田

ファミリーコンピュータの時代から
ゲーム開発に関わっている紺野さんですが、
「社長が訊く」に登場するのは初めてなんですよね。

紺野

だから、ドキドキしています(笑)。

岩田

どうしてこれまで登場していないのか、不思議なくらいですね。
次は芦田さん。「社長が訊く」では、「Wiiハード編」以来の登場ですね。

芦田

はい。総合開発本部開発部の芦田です。
今回はWiiハンドルのプロジェクトリーダーを担当しました。

岩田

そして宮本さん。

宮本

えーと・・・
今回、僕、スタッフロールに名前が入ってないと思うんですけど、
参加させてもらっていいんですかね?

一同

(笑)。

岩田

スタッフロールのいちばん最初に、
「ゼネラルプロデューサー」って出てるじゃないですか。

宮本

僕の肩書きに「ゼネラル」がつく場合は、
制作の中身について、ほとんど口を出さないことが多いんです。
でも、今作では、WiiハンドルやWi-Fi対戦など、
新しい遊びの部分が多かったですから、
そのあたりに関しては、ちょっと口を出させてもらいました。

紺野

ちょっとでしたっけ?(笑)。

岩田

ところで紺野さんは、
『マリオカート』シリーズに、いつから関わってきたのですか?

紺野

第1作目から関わっています。
わたしが関わったのは、スーパーファミコン版、ニンテンドウ64版、
それにニンテンドーDS版の3作です。

岩田

GBアドバンス版とゲームキューブ版には関わらなかったんですね。

紺野

その2作に関しては、開発現場の近くにはいましたので、
相談を受けたりはしましたけど、
開発の中心にはいなかったということですね。

岩田

第1作目のときの立場は何だったのですか?

紺野

もう1人のスタッフとディレクターをやっていました。

岩田

それにしても、第1作目のスーパーファミコン版が出たときは、
とても衝撃でした。最初にも言いましたけど、
当時のわたしは、ゲームをするどころではなかったはずなのに
発売日に買いに走ったくらいですから(笑)。

紺野

ありがとうございます。

宮本

ファミコン初期には、任天堂社内で「技術のHAL研。地道につくる任天堂」
なんて言ってたんですけど、スーパーファミコンが出る前の頃から
任天堂にも優秀なプログラマーがたくさん入ってくるようになって、
『F-ZERO』(※2)のようなゲームも
自前でつくれるようになっていたんですね。

岩田

『F-ZERO』が出たときも、
寝食を忘れて、HAL研のみんなで
タイムアタック競争していたのを思い出します。
むかし、HAL研でファミコンの「F1レース」の
開発を担当したこともあって、
この種のゲームに、妙に惹かれてしまうのかも知れません。

※2

『F-ZERO』=スーパーファミコンと同時に発売された近未来レースゲーム。1990年11月発売。

宮本

だから、岩田さんが発売日に『マリオカート』を買ったのも、
どんなプログラムなのか、チェックするためだったりして(笑)。

岩田

(笑)。

紺野

そもそも、『スーパーマリオカート』の開発は、
『F-ZERO』が1人用のゲームだったのに対して、
2人で遊べるレースゲームをつくろうというところからはじまってるんです。

宮本

ただ、誤解のないように言っておくと、
2人用の『F-ZERO』をつくろうとしたわけではないんですよ。
2人の画面を同時に出すレースゲームを作るのがテーマでした。

紺野

2人用になると、『F-ZERO』のスピード感は
どうしても出せなくなりますしね。

岩田

どうしてマリオを使うことになったのですか?

紺野

最初のプロトタイプ(試作品)では、
つなぎを着たお兄さんがカートに乗っていたんです。

岩田

ちょ、ちょっと待ってください。
いま、聞き捨てにならないことを言いましたよね。
つなぎを着たお兄さんと言ったら・・・?

紺野

やっぱりマリオですよね。
ヒゲをつけ忘れたわけじゃないんですけど・・・(苦笑)。

宮本

『F-ZERO』のときは7頭身のキャラクターでしたけど、
カートのデザインに合わせて、3頭身にしたんです。

岩田

実際にマリオが乗るようになったのは、
どのようなタイミングだったのですか?

紺野

開発がはじまって、3〜4ヵ月たってからですね。
2台のカートで走れるプロトタイプができてからです。

宮本

最初は、レースをするのではなく、
2台のカートを自由に動かしていただけなんです。
それで、1台を止めて、向こうからビューッと走ってくる
もう1台のカートを見ていたら、すごくかわいかったんです。
そこで、試しにマリオを乗せてみたら、
みんなの評判がさらによくなったんですね。
でも、つなぎの絵を描いたデザイナーには、
もともと魂胆があったのかもしれません。
いずれマリオに書きかえようかって(笑)。

紺野

しかも、当時のアイテムはバナナではなくって、
小ぶりのオイル缶でした。
ポイッとオイル缶を投げたら、油が流れ出て、
カートがスピンするようになっていました。

岩田

レースモードとバトルモードはどうやってできていったんですか?

紺野

もともとレースをやることは、最初から決まっていたのですが、
2人で対戦できるコミュニケーションツールとして
何かほかの遊びもあったらいいということで、
単に順位を競うのではなく、
風船を割るアイデアが出てきたんだと思います。

岩田

『スーパーマリオカート』は世界中でたくさんのお客さんに遊ばれて、
2作目がニンテンドウ64で出ることになったとき、
どのようなことを考えましたか?

紺野

『マリオカート64』(※3)のときは、開発室の隣で
宮本さんたちが『スーパーマリオ64』(※4)をつくっていたんです。
わたしたちも、できれば本体と同時発売できるような勢いで
やろうと思っていたのですが・・・。

※3

『マリオカート64』=シリーズ2作目。ニンテンドウ64ソフト。1996年12月発売。

※4

『スーパーマリオ64』=ニンテンドウ64と同時に発売された3Dアクションゲーム。1996年6月発売。

岩田

宮本さんは『マリオ64』にどっぷりつかっていたから、
放っておかれたんでしょう?

紺野

はい(笑)。

岩田

しかも、開発スタッフも
『マリオ64』チームにとられてしまったんじゃないですか?

紺野

そのとおりです(笑)。

宮本

そうやったかな?(笑)。

紺野

だから、別の部署から応援をお願いして
開発を進めていました。
スーパーファミコン版とのいちばん大きな違いは、
3Dで表現できるということだったのですが、
わたし自身、3Dに関しての知識はあまりありませんでしたので、
かなり苦労しました。

岩田

それでも、とても合理的な仕組みでつくられたソフトでしたよね。
コースは3Dだけど、キャラクターは板に描かれていて・・・。

紺野

ここで種明かしをすると、
キャラクターを3Dで表現しようとすれば、
できないことはないのですが、そうすると処理が重くなって、
一度に8人ものキャラクターを走らせることができません。
そこで、カートが回転しても、
いろんなアングルから見える絵を事前に描いておいて、
それをアニメーションのように
板に表示させていたんです。

宮本

この板のことを専門用語では「ビルボード(看板)」と言って、
『マリオ64』で、黒くて丸いボールが出てきたりしましたけど、
あれもビルボードという平べったい板に描かれたものなんですね。
でも、どの角度から見ても、プレイヤーのほうを向くので、
球体に見えるんですね。
ボムヘイやハナちゃんもすべて看板。
平面に描いたきれいな絵だから、
ポリゴンの立体で作ったマリオよりツルツルしてるんですね。

紺野

ニンテンドウ64のころは、使用できるメモリーに制約がありましたし、
ちょっとした節約の知恵みたいなものかもしれませんけど(笑)。

宮本

でも、必要は発明の母というか、
そういうことを考えるのは、すごく楽しいんですよね。
メモリーが足りないから、ここを節約したらちゃんと動くようになる
といったことを考えるのが、
パズルを解くような感じで楽しかったですね。

紺野

『マリオカート64』の4人対戦も、
ビルボードの技術を使ったからこそ、実現できました。

岩田

そういうことを考え出すところが「スゴイなあ」と思うより、
「悔しい」と思ったのが当時のわたしでした。
ニンテンドウ64が出た当時、宮本さんは
「世の中では、『これからはオンラインゲーム』とか言ってるけど、
その前に目の前で4人がいっしょに遊べるものをつくろうよ」
と言っていて、
最初に4人で遊べるようになったのが『マリオカート64』でしたね。