1. 不思議な“ご縁”

岩田

今日は『社長が訊く』で3度目の登場となる坂口さんと、
植松伸夫さんにお越しいただきました。
今回の『ラストストーリー』では、植松さんに音楽をご担当いただいています。
おふたりがタッグを組まれてから長い期間がたちますが、
そもそもどのようにおふたりの関係が生まれたのか、
まずは、おふたりの出会いから教えていただけますか?

植松

はい。僕が昔、横浜の日吉という町に住んでいまして、
そこに毎晩、酒飲みたいやつが集まってくるわけですよ。
で、みんな若いんで、小説家になりたいとか、
ミュージシャン、書道家になりたいんだっていうやつらがいて。
そこで当時、スクウェア(※1)にいた女の子と知り合って、
彼女に連れられてスクウェアに出入りするようになりました。
当時はスクウェアも日吉にあったんです。
それで、すでにそこのボスだった坂口さんと出会いました。

※1

スクウェア=現スクウェア・エニックス。坂口博信氏はスクウェア在籍中『ファイナルファンタジー』シリーズの『1』から『X-2』まで関わった。

坂口

僕がディレクターで、当時のスクウェアはアルバイト集団だったんですよ。
ちょうど処女作の『ザ・デストラップ』(※2)をつくっていたところで、
音楽ができる人が必要だったんです。

※2

『ザ・デストラップ』=1984年に、PC用ソフトとして発売されたアドベンチャーゲーム。スクウェアの処女作で、坂口博信氏がシナリオを担当した。

岩田

偶然、ちょうどいいタイミングで、
坂口さんと植松さんのご縁が生まれたんですね。

坂口

はい。植松さんはそのとき、日吉でバイトをしていたんですよね?

植松

そう、テープをレンタルするっていう
今では信じられないお店があって(笑)、
そこに坂口さんが顔を出してくれるようになったんです。
僕のデモテープを坂口さんに渡したりしているうちに、
あるとき坂口さんと街なかでバッタリと会いまして、
「今度、スクウェアをちゃんとした会社にするんだけど、社員として来ない?」
と誘われたんです。
「はーい、行きまーす」って即答しました(笑)。

岩田

最初の出会いから、どれくらいたってからですか?

坂口

1年くらいですかね。

植松

だからラッキーなことに、入社試験もないままです(笑)。

坂口

だって試験できる人、誰もいないじゃん(笑)。

岩田

わたしもハル研究所(※3)は、アルバイトから入っていますので
就職活動も入社試験も経験していないんです(笑)。
あの時代のゲームソフト会社は、
そういうところがほとんどだったんじゃないでしょうか。
たまたま知り合って、面白いことができそうなメンツが集まって
会社になっていったので、普通の手続きは必要なかったんですよね。

※3

ハル研究所=ゲームソフト開発会社。『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズなどを開発。ハル研究所が設立された1980年当時、岩田は大学在学中にアルバイトとして参加し、卒業後そのまま社員として入社。

植松

多分、履歴書も・・・出していないと思う。

坂口

そうだよね・・・というか、見たこともない(笑)。
しばらくしてから、植松さんが英文学科だったって知ったし。

植松

こらこら、言うな言うな(笑)。

岩田

衝撃の事実ですね(笑)。
そんな植松さんは、音楽とはどのように出会ったんですか?

植松

僕は、普通に音楽ファンだったんですよ。
クラシックよりもラジオの深夜放送で流れるポップスやロックに夢中で、
いつかは音楽に関係する仕事につきたいなぁという
“見果てぬ夢”を見ていた中学、高校時代でした。
自分でデモテープをつくって、いろいろなところに送っていたんですが、
すぐに仕事がとれる業界でもないですからね。
だから坂口さんと出会って、きちんと音楽を学んだわけでもないのに、
今、何かの“ご縁”でこの仕事についている
ラッキーなタイプだなと思います。

岩田

先日、マリオ25周年で
→近藤(浩治)さん(※4)に話を訊く機会があったんですが、
近藤さんは、任天堂に入ってわずか2作目に手がけた作品が、
今や誰もが知っている『スーパーマリオブラザーズ』の曲であったことに、
不思議な“ご縁”を感じたと話していました。
植松さんがラッキーとおっしゃるように、
そのとき、たまたまその場にいたからこそ生まれた
不思議な“ご縁”ですよね。

※4

近藤浩治=『スーパーマリオブラザーズ』シリーズや『ゼルダの伝説』シリーズなどのゲーム音楽を多数担当。任天堂情報開発本部所属。

植松

今でこそ専門学校で学ぶことができますが、
当時はゲームミュージックが職業として
確立されていませんでしたからね。
いわば、音楽で食えないやつがゲームに集まっていた気がします。
まわりを見ても、「本当は映画に行きたかった」とか、
夢破れてこの業界にやって来た人たちが多かったかもしれません。
「果たせなかった夢の代わりに、ゲームで新しいものを生み出せるんじゃないか」
って、みんなが信じていた時代でしたね。

岩田

それと、ゲーム業界はわずか20数年の間で、
表現の手段が飛躍的に変わっていったので、
その変化のなかに、そのつど可能性を見い出していったんですよね。
ゲーム初期の音づくりは、非常に制約のある世界でしたが、
音楽を志していた植松さんにとって、
制約のきびしい音づくりをどのように感じていましたか?

植松

仕事自体が、ひとつのゲームみたいなものでした(笑)。

岩田

ああ、確かに(笑)。

植松

当時はファミコンで、たった3音(※5)でしたけど、
パズルを解くようで、僕はどちらかというと面白かったんです。

※5

3音=ファミコンではメロディと効果音を含めて、3つの音(パート)まで同時に鳴らすことができた。

岩田

それを面白いと感じられる人が、
ゲーム音楽の世界で結果を出してこられたのではないでしょうか。
たった3音について、「こんなことしかできない」と思うか、
「これでできたら面白いぞ」と思うかの差が、
向き不向きなのかもしれませんね。

坂口

3音しかないのに、そのうちの2音を使ってコーラス効果をつくっていましたよね。

植松

微妙に周波数をずらして立体っぽく聞こえるようにするとか、
いろいろと試しました。
当時は、いろんなメーカーが同じファミコンでソフトをつくっているのに、
メーカーによってさまざまな音があったんですよ。

坂口

音色も違いましたよね。

岩田

「これはいったい、どうやって鳴らしているんだ?」と
感じるような、すごい音源を使っているソフトもありました。

植松

すごい音源といえば、
コナミさんはカートリッジ内部に音源チップを採用したりして、
メーカーによって、音のつくり方には色がありましたよね。

坂口

そうでしたね、あれはチップを使っていたんですか・・・。

植松

あれを知ったときは、ちょっと「ズルイ」と・・・(笑)。

岩田

そんな植松さんにはじめて会われたとき、
坂口さんはどんな印象をもたれました?

坂口

うーん、今とそんなに変わらないですね・・・気さくな人でした。

植松

まだ20代でしたけどね。

坂口

でも、雰囲気は今と変わらないよね。
気取らず、気張らず、自然体で生きている人。
気持ちのやさしい曲をかきそうだなって、思いました。
ただ・・・はじめの頃は、いろいろとありましたねえ(笑)。

岩田

たとえばどんなことですか?

坂口

いまだに話題にするんですが、『FF1』(※6)のとき、
植松さんがあげてきた曲に対して、「こんな音楽じゃダメだ!」
って1度は僕がつっぱねたんですよ。
でも、植松さんがもう1回、今度は曲順を変えて持ってきたら、
僕はすかさず「これだよ!」ってOKしたらしいんです。

※6

『FF1』=『ファイナルファンタジー』。1987年12月に、ファミコン用ソフトとして発売されたRPG。シリーズ1作目。

一同

(笑)

坂口

これはしてやられた・・・と思いました(笑)。

植松

そんなもんです(笑)。

坂口

結局、曲はそのままいきまして、今にいたるわけです。