社長が訊く
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社長が訊く『ポケットサッカーリーグ カルチョビット』

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社長が訊く『ポケットサッカーリーグ カルチョビット』

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目次

1. “見て楽しむ”

岩田

薗部さん、今日はありがとうございます。
薗部さんとわたしは同じ世代で、
わたしは勝手に、黎明期から
ずっといっしょにゲームにかかわってきた、
という印象を持っているんですけど。

薗部

ええ。
岩田さんがハル研究所(※1)にいらしたとき、
いっしょに温泉に入ったり・・・(笑)。

※1
ハル研究所=株式会社ハル研究所。『星のカービィ』や『大乱闘スマッシュブラザーズ』シリーズなどを手がけてきたソフトメーカー。かつて岩田が社長をつとめていた。

岩田

ええ、石和温泉(笑)。

薗部

石和温泉に(笑)。

岩田

(しみじみと)そうでしたね・・・。
あの・・・今日は『カルチョビット』のお話を、
ということなんですが。

薗部

はい。

岩田

まぁ、せっかくの機会ですから、
薗部さんの過去作についても
お訊きしたいと思いますので、
どうぞよろしくお願いいたします。

薗部

こちらこそ、よろしくお願いいたします。

岩田

薗部さんはこれまで、
野球、競馬、そしてサッカーのジャンルで、
いずれもシミュレーションをベースにしながらも、
従来にはなかったスタイルの
ゲームをたくさんつくってこられましたよね。

薗部

はい。

岩田

そもそも薗部さんのビデオゲームとの出会いは、
何からはじまったんですか?

薗部

最初はもちろん『ブロック崩し』(※2)です。
あの当時のゲームセンターには
ピンボールのようなゲームしかなかったのに、
あれがやって来て・・・すごく衝撃的でした。

※2
『ブロック崩し』=ボールをはね返して、上部に並んだたくさんのブロックを消していくゲーム。アメリカで開発され、日本では1970年代後半に登場。

岩田

メカもののゲーム機しか
置いていないゲームセンターに、
テレビモニターのついたゲームが
いきなり現れたわけですからね。
あれはまったく別種の娯楽装置でした。

薗部

そう。
しかも100円玉があっという間になくなって。

岩田

100円玉を積んで、それがあっという間に。

薗部

ええ(笑)。
でも、あの当時の僕は高校生でしたから、
積めるほどの100円玉もなくて。
だから、人がやっているのをずっと見ていました。

岩田

はい(笑)。

薗部

うまい人がやっていると永久に終わらないんです。
でも、それをずっと見ているだけで楽しかった、
みたいなところがありました。

岩田

あの頃のゲームセンターは、
うまい人が遊んでいると
そのまわりに人垣ができていましたからね。

薗部

そうでした。

岩田

高校生だった薗部さんが
ゲームセンターで初めてビデオゲームに出会って、
そのとき、どんなことを考えていましたか?

薗部

あの当時の僕は、
ゲームセンターにあるゲームは
ハードで動いているものだと思っていたんです。

岩田

つまり、ソフトウェアの知識がなかったんですね。
確か『インベーダー』(※3)あたりから、
本格的にソフトウェアが使われるようになったと
記憶しているんですが・・・。

※3
『インベーダー』=『スペースインベーダー』。1978年に登場したアーケードゲーム。

薗部

そうです。
ソフトウェアというものがあること自体、
まったく僕の意識の中にありませんでした。
で、大学は理系で、機械工学科に進んだんですけど、
入学してすぐにプログラム電卓(※4)を買わされたんです。

岩田

じつはわたしのゲームプログラム経験のルーツも
プログラム電卓です。

※4
プログラム電卓=関数電卓のプログラム機能を発展させ、より複雑な計算が可能になった電卓。1970年代に登場。

薗部

あ、そうなんですね(笑)。
そのプログラム電卓を使って
簡単なゲームをつくることができましたけど、
「ソフトウェアって何だ?」と思ったときに、
ピーヒャララという音が。

岩田

はいはい、あの当時のプログラムは
カセットテープに音声としてセーブしていましたから、
そのときに聞こえたんですよね。
ピーヒャララという音が。

薗部

何がソフトウェアなのかを理解していない僕は、
それがソフトウェアの正体だと思ったんです。

岩田

あははは(笑)。

薗部

で、そのあと麻雀にハマりまして、
『ジャンピューター』(※5)に夢中になりました。

岩田

ああ『ジャンピューター』、
あれはすごく流行りましたよね。

※5
『ジャンピューター』=1981年に、アーケード用ゲームとして登場した麻雀ゲーム。

薗部

その『ジャンピューター』も、
コンピューターがいろいろ考えて
麻雀牌を積んだりしているなんてことは
最初はわからなかったんですけど、
そこで初めて
「ソフトウェアで動いているんだ」
ということが理解できたんです。

岩田

それでコンピューターとの距離が
急に変わったんですか。

薗部

そうですね。

岩田

コンピューターに関して
もともと門外漢だった薗部さんが、
やがてコンピューターでのゲームづくりに
のめりこんでいくようになるわけですけど、
そのキッカケは何だったんですか?

薗部

もともと、子どもの頃から
ゲームをつくるのは好きだったんです。
コンピューターが出てくる前の、
ボードゲームみたいなものですが・・・。

岩田

それはどんなゲームですか?

薗部

紙に野球場の絵を描いて、
消しゴムのカスを丸めたボールを指ではじいて
止まったところでヒットとか、
二塁打とかが決まるような、
そんな遊びをしていました。

岩田

手作り野球盤に近いものですよね。
わたしもつくりました。子どもの頃(笑)。

薗部

それで試合結果を家に持ち帰りまして、
打率とかを集計して、
翌日に発表していたんです。

岩田

薗部さんは子どもの頃から
“データ集計魔”だったんですか?

薗部

いや、そういうわけでもないんです。
手作業で計算するのはやっぱり面倒で、
初めて電卓を買ったとき、
「計算するのがすごく楽になった!」
と感じましたから。

岩田

でも、ふつう手作り野球盤で遊ぶときは、
せいぜいスコアボードをつけるくらいですよね。

薗部

そうですね。
でも、打撃ベストテンとかを発表したときの
みんなの反応を見るのがすごく面白かったんです。
ですから『ブロック崩し』が流行ったときも、
自分で遊ぶより、人が遊んでいるのを
見ているようなところがありました。

岩田

つまり、自分で操作して楽しむというより、
プレイしている人や、まわりの人の反応を見て
楽しんでいたんですね。

薗部

そうです。
それに、自分で操作できないので、
「そっちだ!」とか、声で参加していました。

岩田

ああ、なるほど。
薗部さんのゲームづくりの基本にある、
自分でプレイするより“見て楽しむ”というのは、
すでにその当時からあったんですね。

薗部

そうですね。

岩田

ちなみに、最初に手に入れたパソコンは
何でしたか?

薗部

FM-7(※6)です。
本当はFM-8(※7)が欲しかったんですけど・・・、
すごく高かったんです。

岩田

確かにFM-8は高かったですよね。
あの当時でも20万円以上しましたから。

薗部

でも、FM-7は
その半分くらいの値段でぽんと出たので・・・。

岩田

「これだ!」と思って買ったんですね。

薗部

そうです。

※6
FM-7=1982年に富士通が、FM-8の廉価版として発売した8ビットパソコン。
※7
FM-8=1981年に富士通が初めて発売した8ビットパソコン。

岩田

当然、最初はパソコンのことは
何も知らないところからの
スタートだったと思うんですけど、
どうやって勉強されたんですか?

薗部

いや、勉強も何も、FM-7を買った日から
パソコン専門誌に載っているリストを見て、
延々と打ち込むようなことをしていました。

岩田

昔はひたすら打ち込んでましたもんねぇ。

薗部

そうすることで、結果的に
BASIC(※8)の勉強になったと思います。
それにFM-7のCPUは
すごくマイナーだったんですけど、
それが、のちにファミコンでつくるときに
とても役に立ちました。

岩田

はい。FM-7のCPUは6809(※9)で、
ファミコンの6502(※10)とは部分的に似ていて、
親戚のような関係にありましたからね。

薗部

そうです。

※8
BASIC=1964年にアメリカで開発されたプログラム言語のひとつ。
※9
6809=「MC6809」。アメリカのモトローラ社が1979年に発売した8ビットCPU。
※10
6502=「MOS6502」。アメリカのモステクノロジー社が1975年に発表した8ビットCPU。Apple IIで採用され一躍有名になったが、日本ではパソコン用CPUとしてはあまり普及しなかった。ファミコンで採用されたのは6502の互換CPU。