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「エルナン、まだ生きているか」

声の主は、エスペランサ(希望)号の船長、ミカエル・エランツォ。
イスパニア海軍士官として、名声をほしいままにした人物である。
ミカエルの船は、航海中に突然、大船団に囲まれた。
次々と斬り込んでくる水夫たちに向かって、皆、必死で戦った。
──だめだ。いくらなんでも多すぎる。
あまりにも苦しい戦いだった。
ミカエルの手は、すでに敵兵の血で赤黒く染まっていた。
彼が自分の体を支えきれなくなり、床にひざをついたときには、
敵兵は船に火を放ち、ゆうゆうと引き上げようとしていた。
──逃がすものか。
しかし、もはやミカエルは、立ち上がることすらできない。
なんとか顔を上げた彼の眼に、副官・エルナンの姿が入った。
彼の親友であり、妹・カタリーナの婚約者でもある。
せめて、エルナンだけでも、カタリーナのためにイスパニアに戻ってほしい。
そう願って、ミカエルは彼の名を呼んだ。
しかし、返答はなかった。

「イスパニア艦隊、サント・ドミンゴ沖で消息を絶つ」
恐るべきニュースは、ヨーロッパ中に広がっていった。




事件を耳にしたヘンリー王は、ひそかにほくそ笑んでいた。
──あのエランツォ艦隊が全滅……。これで、イスパニアの鼻をあかしてやれるな。
戦争に次ぐ戦争で疲弊しきっていたイギリス王国にとって、
新大陸に関しては一歩も二歩も先を歩むイスパニアを出し抜く、絶好の機会であった。
「スピノーラを呼べ。火急の用件だ」

「お呼びでございますか、陛下」
指名を受けたオットー・スピノーラに、王は密命を告げた。
緊張の面もちでひざまずくオットーの肩においた王の手に力がこもる。
「期待しておる。そなたに我がイギリス王国の未来がかかっておるのだ」




ポルトガル王宮の広間に主だった大臣が並んでいる。
中央に座る王の姿には、精神的な疲労が浮かんでいた。
「例のイスパニア艦隊を撃沈したのは、我が国の艦隊らしい」
この言葉に、広間にはざわめきが流れた。
王の入手した報告書によると、
エランツォ艦隊はポルトガル国籍らしい艦隊に壊滅状態に追い込まれ、
サント・ドミンゴ付近で沈没したという。
ポルトガルはこれまで、イスパニアと共存共栄を保つ領土拡張政策を取り続けてきた。
今でも、それを願う王の心に変わりはない。
この事件で両国の関係が悪化することを、王はひたすらに恐れていた。
「両国の関係を崩すわけにはいかぬ。力を貸してほしい」

宰相・レオン・フェレロ公爵は部屋で考え込んでいた。
一艦隊を撃沈させるほどの大がかりな組織であれば、
それだけ多額の資金を持つ団体、または人物であろう。
レオンの胸中には、すでに1人の人物像が浮かび上がっていた。
よほどの証拠がなければ、容易に口には出せない。
しかし、自らが動いては、事件を調べていることが公になってしまう。
名案はないかと、レオンは天井を見上げた。
壁には、レオンと妻・クリス、息子・ジョアンを描いた肖像画がある。
──ジョアンももう18歳か……
彼は、ジョアンを若き日の自分の姿に重ねていた。
レオンが幼かったころ、
かつて名門であったフェレロ家は完全に没落していた。
父・ファブリスは、家名を回復しようと航海に出たが、
嵐に巻き込まれ波の彼方に消えていった。
レオンは、父の遺志を継いで海に出る決意をしたのである。
──あいつも、そろそろ海で鍛えてもよいころだな。
レオンは、覚悟を決めて立ち上がった。




イスパニア艦隊の噂は、遠くアムステルダムにも届いていた。
大学で地理を教えるエルネスト・ロペスも、この謎には大いに関心があった。
彼には、つねに世界航海の夢がある。
しかし、他に生活の糧がまったくない彼にとって、友人・メルカトールの推薦で得たこの仕事を放り出すことはできなかった。
──自分の目で確かめたい。完全な地図が今こそ必要なのだ。
地図をにらみながら深いため息をもらしていると、研究室に学生が飛び込んできた。
メルカトールが彼を呼んでいるという。
「なんだろう? すぐに行くと伝えてくれ」

メルカトールの家では、病弱な彼が窓辺まで姿を現してエルネストを待っていた。
「きみは、あの事件をどう見ている?」
メルカトールは尋ねた。
「例の船は危険海域に入り込んだ、というのが教授の意見だ。
だが、正確に記された地図が1つもないのだから、確かなことは誰にも言えないだろう」
エルネストの悔しそうな表情を見て、
メルカトールは単刀直入に切り出した。
彼の見込みは間違っていないようだ。
「じゃあ、僕の代わりに世界各地を航海してくれないか。資金の心配はしなくていい」




借金取りが詰めかけるコンティー家から、
ピエトロは、悪友・カミーロを探すために脱出した。
リスボンの貴族の家で働く彼が、
ジェノバに戻っているという噂を耳にしたからである。
ピエトロの予想通り、カミーロはなじみの酒場にいた。
「俺とリスボンに行かないか。
借金付きでもいいから、お前を雇いたいって人がいるんだ」
開口一番、カミーロは用件を切り出した。
カミーロは、なんとか彼に冒険の機会をもう一度与えてやりたいと思っていた。
今は落ちぶれているが、ピエトロは優れた冒険家である。
だが、彼をバックアップしていた父親が多額の借金を残して死んだため、
航海に出る術が失われてしまったのだ。
カミーロの話によると、
リスボンのフェレロ公爵家は、世界の情勢をいち早く入手するため、
実力のある冒険家を探しているらしい。
「悪い話ではなさそうだな。相手に会わせてくれよ」




アル・ヴェザスは、幼なじみのサリムの姿を探して、
イスタンブールの下町を歩いていた。
港に行くと、金角湾を見つめるサリムの後ろ姿があった。
無言で海を見つめていたサリムが、ようやく低い声で話し始めた。
昨日、イスタンブール港に流れ着いたラテン型の難破船は、
彼の父親のものだったという。
悲しみにゆがむサリムの横顔を見ながら、
アルは幼いころに別れた家族のことを思い出した。
──父さん、母さん、サファ……
一瞬、アルの脳裏に、平和な家族の光景が浮かんだが、
自分まで感傷的になっても仕方がない。
「なあ、あの豪快な親父さんが、そう簡単に逝くわけはないだろう。
うまく逃げ出したに決まってるさ」
「……そうだな。船は無人だったんだから、死んだとは限らないか。
あの船を修理して、親父を探すとするか」
「じゃあ、金がいるな」

アルの口利きで、サリムはなんとか造船所から船を引き取ることができた。
「まずは、この船の修理代を返さなきゃな……。
お前、海軍出身なんだから、船くらい動かせるだろう。交易でもするか」
当座の資金は投資という名目で人から集め、
それで商売を始めるというのだ。
サリムは改めてアルのたくましさに感心した。
笑顔の戻ったサリムとともに、アルは商品を仕入れるため市街地へと向かっていった。




「エゼキエル司令官がお呼びだ」
声に反応して、カタリーナ・エランツォの表情が変わった。
司令官の呼び出しは行方不明の兄たちのことに違いない。
──兄さん、エルナン、お願いだから無事でいて……
カタリーナは祈るような気持ちで司令官室に向かった。

イスパニア海軍本部の最上階に、
カタリーナの上司・エゼキ工ルの部屋はあった。
彼は、友人であるミカエルの妹には常に優しかったが、
今日は厳しい表情で彼女に背を向けたまま話し始めた。
「先月、エスペランサ号が発見されたとの報告が入った。
船は無人で、ひどく損傷していた。
嵐に巻き込まれて難破したらしい。
乗組員の生存は、絶望視されている」
カタリーナの顔が蒼白になった。
「中尉、きみは優秀な士官だ。この悲しみを乗り越えてほしい」
カタリーナは、最後まで聞かずに部屋を飛び出していった。
ついにカタリーナの顔を見ようとしなかったエゼキエルは、
窓に映った彼女の後ろ姿を見送りながらつぶやいた。
──かわいそうに。兄と恋人を同時に失うとは……

「イスパニア船の話、聞いたか」
酒場では、他国の船乗りが噂話に興じていた。
カタリーナは耳をそばだてて、会話を聞いていた。
「おい、そりゃ、フェレロ公爵家の」
周囲の反応を気にしたのか、彼らは急に声をひそめた。
しかし、カタリーナにはそれだけで十分だった。
──フェレロ公爵。その名を胸に刻んでおくわ。
店を出たとき、すでにカタリーナの気持ちは固まっていた。
「フェレロを狙うつもりなら無駄だ。きみの手におえる相手じゃない」
エゼキエルの言葉も、同僚であるサヌードの忠告も、
もはや彼女の心を変えることはできなかった。
「許せない。たとえ、海賊になってでも奴を追いつめてやる」



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