3. 巨大な方眼紙にドット画を描いて

竹田

『パンチアウト!!』をつくったとき
もうひとつの背景がありましてね。

岩田

はい。

竹田

それまではドット画で
1個ずつ絵を描くようなことをしていたんですけど、
デッサンでスッと描いてもらって
その絵をそのままゲームのなかに取り込むという
そういう基礎的な実験をいろいろはじめていました。
だからプロのアニメーターにも
描いてもらえるといったことも・・・。

宮本

いや、なんか微妙に違うような・・・(笑)。

竹田

違う?(笑)

岩田

まあ、25年も前の話ですからね(笑)。

宮本

アニメーターの描いた絵を
そのまま取り込むツールは
当時はぜんぜん充実してませんでした。

岩田

(笑)

宮本

だから、机の大きさくらいの巨大な方眼紙を
わざわざ印刷してもらって、
全部手で描いてました。

竹田

ただ、それを取り込める・・・。

宮本

いえ、それをデータとして取り込むところが、
いわばプログラマーが楽だったというだけで、
デザイナーはぜんぜん楽ではなかったんです。

一同

(笑)

宮本

ものすごく大きなドット画を
全部手で描いていましたから。
そうやって描いたドット画を
スキャナーで入力するような仕組みが自動化されたと。

岩田

じゃあ、絵は宮本さんが全部描いたんですか?
とても個性的な対戦相手が登場しますけど。

宮本

それまでは自分で絵を描いてきたんですよ。
でも『パンチアウト!!』では
大きなボクサーを描くという時点でビビリましてね。
ちょっと自分の画力では描けへんと(笑)。

岩田

1.5倍の絵が表示できるということで
いつもよりも大きな絵を描く必要があったんですね。

宮本

そこで、ボクサーの絵を試しに何人か描いて、
東京のアニメーターの香西(隆男)さんの会社、
スタジオ・ジュニオ(※10)
持って行ったんです。

岩田

「新・巨人の星」とか「魔法使いサリー」の
アニメーションを描かれてた方ですね。

※10

スタジオ・ジュニオ=アニメーターの香西隆男氏が東映動画退職後に設立したアニメーション制作会社。現社名はジュニオ ブレイン トラスト。

宮本

ええ。僕にとってはそれが
アニメーターさんとの初めてのおつきあいになるんです。
そこで、喫茶店で絵を見せながら、
いろいろ説明したんですけど、
「面白い絵を描くねえ」とほめてもらったんですよ。
どう見たってヘタな絵なんですけどね。

岩田

(笑)

宮本

あの人たち、毎日上手な絵を見てるので、
ユニークな絵のほうが・・・。

岩田

魅力があると(笑)。

宮本

だから、僕の描いた絵には
けっこうネタがつまってると思われたようなんですね。
そのとき「すごくいい絵、描くよねえ」と言ってもらえて、
それがもう僕にとっては励みになっていて・・・。
それで喜びながら京都に帰ってきて、
1週間くらいたつと
僕の元絵が立派なセル画になって戻ってきたんですよ。
きれいな色に塗られていて、
「あ、すごいボクサーらしくなった」みたいな(笑)。

竹田

だから、さっき
プロのアニメーターに外注してもらったと。

宮本

合ってるのはそこだけなんですよ(笑)。

一同

(笑)

宮本

もう、その後が自動化されるどころか
ものすごく大変で(笑)。
まず、そのセル画を竹田さんに見せて
気に入ってもらえたので、
パーツごとの設計に入ったんです。
パンチやジャブなどの腕の動きから
顔を横向きにしたりとか、
いろいろパーツ分割して
それをセルにもう1回出したんですね。

岩田

アニメーションとして動かせるように。

宮本

それで上がってきたセルを拡大して
さっき言った巨大なトレーシングペーパーをのせて
1枚1枚、ドット画におこすようなことをしていたんです。
でも、とてもひとりでは描ききれないので、
僕がアウトラインをあたって、
アシスタントの女性に色を塗ってもらうようなことをして、
それを竹田さんのところに持っていくと。

岩田

なんか、すごい力仕事のような気がしますね(笑)。

竹田

ちょっと記憶があいまいなんですけど、
ツールができたのは『スーパーパンチアウト!!』(※11)のとき?

宮本

そうだったと思います。
『パンチアウト!!』のときにすごく大変だということがわかったので、
『スーパーパンチアウト!!』でだいぶ自動化されたんですね。
だから、1作目のときは大変でしたけど、面白かったですね。
僕はそこでアニメーターの方々とつきあいはじめることになって、
将来は小田部さん(※12)ともつながるし、
前田さん(※13)という「Dr.スランプ」を描いてた方にも出会って、
それで『ゼルダ』をつくるときのイラストを頼んだり、
『エキサイトバイク』をいっしょにつくったりしましたし。

岩田

大きなボクサーの絵が描けないと
宮本さんがビビッたことが、のちに
いろんなものにつながっていくということなんですね(笑)。

宮本

そうなんです。
僕にとっての『パンチアウト!!』は
いろんな人とのつながりが生まれた
キッカケのソフトなんです。

岩田

で、宮本さんがドット画以外に描いたのは?

宮本

プレイヤーとレフリーです。
だから、スタジオ・ジュニオさんが描いた対戦相手より
質が落ちるんですけど(笑)。

竹田

観客席のなかに
マリオとドンキーコングもいて。

宮本

そうでした。
マリオはいろんなソフトに出そうと思っていましたので
ちょうどいいと。
あと、会場でカメラのフラッシュが光るんですけど
そのような演出は、世界で初めて僕がやったんじゃないかと。

※11

『スーパーパンチアウト!!』=『パンチアウト!!』の続編として、1985年に発売された業務用アクションゲーム。

※12

小田部さん=アニメ「アルプスの少女ハイジ」などを制作した小田部羊一氏は、東映動画退職後に任天堂に入社し、マリオのキャラクターデザインなどの仕事にたずさわる。現在フリーとして活躍中。

※13

前田さん=アニメーターの前田実氏。スタジオ・ジュニオに入社し、「Dr.スランプ アラレちゃん」「ドラゴンボール」「タッチ」などの大ヒットアニメの総作画監督を歴任した。

岩田

そして続編の『スーパーパンチアウト!!』が出たのが・・・

宮本

翌年の1985年ですね。

業務用ゲーム機『スーパーパンチアウト!!』

→業務用ゲーム機『スーパーパンチアウト!!』

竹田

おかげさまで『パンチアウト!!』は
とても人気が出ましてね。
毎日、コインがたくさん入ってるという報告を受けてたんですよ。
それで、「続編をつくってくれ」と言われたんですけど
すごく困っちゃいましてね。
ボクシングでは、やることはやっちゃったわけですから。
そこで、反則ワザを入れるしかない、ということで、
足で蹴る人も出てきたりだとか
要は格闘技のような人が出てきたり、
もう何でもありの状態でつくったのが
『スーパーパンチアウト!!』だったんですね。

岩田

ボクシングゲームの枠を超えて・・・。

宮本

後半はすごい動きをしてるんですよ。
ロープからロープに三角跳びをしたりとか(笑)。

岩田

プロレスじゃないんだから(笑)。

宮本

そこはもう独壇場でしたね。
奔放な竹田さんの。

竹田

武器を持たせようかとか
とてもまじめに議論もしたんですよ。
でも、そこまでするのは
あまりにも変だよねということなって(笑)。

一同

(笑)

岩田

宮本さんはそのとき、
どのように関わったんですか?

宮本

僕は、絵だけでサポートしてました。
だから、仕上げにもあまり入ってないんですね。

岩田

それにしても、
かつて『パンチアウト!!』について語り合ってたという、
竹田さんと宮本さんの姿は、どうしても想像できないです(笑)。
でも、それがルーツなんですよね。

竹田

ただ、この『スーパーパンチアウト!!』が最後でしたね。
いっしょに仕事をする・・・。

宮本

そうですね。NINTENDO64の時代になるまで・・・。

竹田

その頃はわたしはもうハード部門ですから。

岩田

いっしょにソフト開発をしたのは
『スーパーパンチアウト!!』が最後だったんですね。
宮本さんに訊きたいんですけど
竹田さんのゲームづくりの特徴は
どういうところにあったんですか?

宮本

ひとことで言うと、やっぱり奔放ですね。

岩田

ピザ・パスタの命名とか?(笑)

宮本

発想がとても自由なんですね。
だから、見習うべきところがいっぱいあって・・・。
たとえば、新しくて困難な命題を与えられたとき
「どうしろと言うの?」と思う人が多いんですけど、
竹田さんは「なんとか自分たちでやろうよ」
と考える人なんですね。
ビデオゲームというもの自体が
どうつくっていいかわからない時代に、
ビデオゲームがつくれる会社に頼みに行った人たちと、
自分たちだけでつくろうとしていた人たちの、
2つの流れが任天堂のなかにはあって、
竹田さんは後者の旗手として
いまも時代を動かしていると思うんです。
ただ、ちょっと早すぎるところもあって・・・。

岩田

早すぎる?

宮本

いまでこそ
Wiiでモーションセンサーは当たり前になりましたけど
グローブのインターフェイスはちょっと早すぎたかなと。

岩田

なるほど(笑)。

宮本

だから、竹田さんという人は
10年後にいいということを考えられる人なので、
それが果たして、いまの時代に合っているのか、
それを「いま風」に翻訳する役目として、
僕がここにいるんだと思っています。