2. 準備はしすぎることはない

岩田

一般的にクイズ番組をつくるときは
構成を考えられる方が別にいて、
その方がいろんなことを下調べされて、
このテーマを軸に番組を組み立てて、
そのための準備をするのがふつうですよね。

鈴木

そうです。

岩田

ところが「クイズ面白ゼミナール」の場合、
鈴木さんご自身が、テーマを全部飲み込んだうえで、
さらに自分で大量にいろんなことを調べて、
それは本当なのか、違う見方はないのかと、
そういったことをとことん調べ尽くされてから
番組の本番に臨まれていたという逸話を
以前お聞きしたことがあるんですが。

鈴木

ディレクターやプロデューサーが
たとえば買い物袋ひとつぶんの資料を用意してくれたら、
わたくしは同じ分量の資料を自分で集めていました。

岩田

同じ分量もの資料を・・・。

鈴木

まず集めてくれた資料を全部読みます。
それで、「あ、ここが抜けてるな」と。

岩田

「抜け」を感じるんですか。

鈴木

穴がいっぱいあるんです。

岩田

人間がひとつの角度から集めてくると、
ありとあらゆる角度から埋まっていることはないので、
全部読んで、飲み込まれると
それがたぶん頭のなかで立体的につながって、
そこに隙間を感じるようになるんですね。

鈴木

ええ、そうです。

岩田

で、その隙間を、こう言ってはなんですけど、
埋めずにはいられないと。

鈴木

はい、そういうことです(笑)。

岩田

でも、いまのようにコンピュータがあって
インターネットで探せば何でも出てくる時代ならいざ知らず、
足で動かないと絶対に情報が得られない時代でしたよね。
どうやって調べたらいいのかわからないものを、
おそらく、そうとうお忙しいなかで
用意された資料と同じ分量のものをご自分で集めてきて、
しかも、それを7年間続けてこられたというのは
驚異というほかありません。

鈴木

(笑)

岩田

わたしはものをつくる会社の社長をしておりますので、
ものをつくるうえで何重にもいろんなことを考えて、
いろんな角度から見てつくるようにしています。
で、結果として、お客さんが一通りしか
味わっていただけなかったとしても、
わたしたちはムダなことをしたとは思っていないんです。
それどころか、自分たちの価値は
そこまで用意周到に考えることにあるんだと思っていて、
それは鈴木さんが大事にされている話と
すごく共通点があるような気がします。
準備というのは、しすぎることはないんですよね。

鈴木

そうです。準備というのは、いくらやっても
しすぎることはないんです。
「クイズ面白ゼミナール」を担当する前に
「歴史への招待」(※2)という教養番組もやっていましたけど、
そのときもそうだったんですね。
打ち合わせをして、いざ本番になると、
「ここではこっちの情報を伝えたほうがいい」と思ったら、
ディレクターには何も言わないまま、
わたくしが持っていた情報をポンと入れてしまうんです。
ですから、いっしょにやっていたディレクターは、
本番後に、わたくしが言ったことが正しいかどうか、
もう1回、調べ直さなきゃいけなかったんです。
「鈴木健二はあのように言ったけれど、
どこにその資料があるんだ?」と。

※2

「歴史への招待」=1978年12月から1984年3月まで、約5年間にわたりNHK総合テレビで放送された歴史教養番組。

岩田

ディレクターさんにとっては
すごく心臓に悪そうですね(笑)。
毎回、すごく高い集中力も要求されるのでしょうし。

鈴木

ですから、本番が終わると、
カメラマンとかがみんなくたびれてしまって
座り込んでいたくらいでした(笑)。
そもそも「クイズ面白ゼミナール」のきっかけになったのは、
その前の昭和55年の秋でございましてね。
芸能局のディレクターたちが来て、
「何か面白い番組をつくれませんか?」と相談されて、
そのとき、わたくしは「ひとつあるぞ。クイズだよ」
と答えたのがはじまりなのです。
その当時、クイズばやりだったんですが、
全部“当てもの”だったのです。

岩田

選択肢のなかから
正解を選ぶタイプのクイズですね。

鈴木

ええ。「この人は今度、右に行くでしょうか?
それとも左に行くでしょうか?」
「右です」「はい当たり」という、それだけなんですね。
それをなんとかやめさせないと、見ている人が・・・。

岩田

考えないんですね。

鈴木

そう、考えないんです。それで出場している人だけが、
とてつもない賞金をもらって帰っていくんですよ。
クイズというのはそういうのではないんだと。
ひとつのことをよく調べて、そしてそのなかから
わかりやすく問題をつくって、
なおかつ、きちんと答えを解説してあげる。
これでクイズなんだと。そういうのならできるぞと。

岩田

鈴木さんはアナウンサーの立場で
クイズの企画を提案されたんですね。

鈴木

実はわたくし、表向きはアナウンサーなんですが、
“名ばかりアナウンサー”でございまして、
実はプランナーをやっていたことのほうが多かったのです。
「NHKスペシャル」(※3)とかいろいろやりまして、
「スペシャル番組部」というのをつくったのも、
わたくしなんです。

岩田

ええっ、そうだったんですか。

※3

NHKスペシャル=1989年まで「NHK特集」と呼ばれていた、ドキュメンタリー番組。

鈴木

そこで番組をひとつ考えまして、
1972年に札幌オリンピックがございました。
その閉会式から、ミュンヘンオリンピックの開会式まで
特殊なクルマにカメラを2台積んで、
撮った映像をクルマのなかで編集して、
衛星を通して、月に2本の番組を送りましょうと。

札幌オリンピックの閉会式撮りが終わってから日本を出て、
香港に行って、それから中国のどこか、
北京か南京あたりに渡って、ベトナムに入り、
そのあとラオスに入って、飛んでインドに行って、
中近東を回って、アフリカの北半分に入り、
それからソビエトに行って、ソビエトから東ドイツに入って、
最後にミュンヘンの近郊のダッハウという町に入りましょうと。
その町にはユダヤ人の強制収容所がありまして、
たくさんの人たちがガス室で死んでいるのです。
その戦争の象徴のような収容所の前を
オリンピックの聖火が通ることがわかったのです。

そこで、シリーズ最後の結びは
その強制収容所の前を聖火が通るのを見ながら、
わたくしが戦争と平和について、5分間話をして、
それがラストシーンですよと。
そういう設定にしまして、スタッフ全部で、
運転手さんも入れて、9人というチームをつくりましてね、
2億3000万円の予算で
NHKの上層部に提出いたしました。

すると、真夜中にNHKのいちばん偉い人から
電話がかかってきまして、
「大変すばらしい企画をありがとう」と言うんです。
「ぜひこれをやりたい」と言うんですね。
ところが「ちょっと費用がね・・・」と。
「だから、費用は2億3000万で出したでしょう」
「ちょっと高いんだよね」
「どのくらい高いんですか?」と言ったら、
「上の2億がね」と(笑)。

岩田

そんな風に真夜中に電話してこられるわけですか(笑)。

鈴木

「じゃあ3000万円だけで」と言って、
なんとか実現させることになったのですが、
当時は、ソビエトやインドなど
社会主義国の情報がほとんど入らなかった時代なんです。

岩田

冷戦時代のまっただ中でしたからね。

鈴木

ところが、たまたま
ソビエトの放送協会の会長で、
こちらで言うと、郵政大臣も兼任している人が来日しました。
わたくしたちスタッフはその人に直談判したんです。
「あなたの国に行きたいけれど入れない。
だけど、あなたの国のOKがあれば、
東欧圏のどこへでも、インドへも行けるだろう。
ですから、どうかお許しを願いたい」と頼んだんです。
すると「外国人取材者として、最大の恩恵を与える」と、
お墨付きをわたくしにくださったんですよ。
で、実際にソビエトに行ってみると
それはまったく違っていました(笑)。