社長が訊く
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社長が訊く『The Wonderful 101』

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社長が訊く『The Wonderful 101』

神谷 英樹さん 篇

目次

3. 「遊んできたものの中に、答えがある」

岩田

神谷さんはアーケードゲームも
かなり遊ばれてるんですね。

神谷

はい。予備校のゲーセン通いを機に、
80年代のアーケード黄金時代は
とくに濃く、リアルに体験しています。
当時はお店に新しい基板や筐体が
搬入されてくると、
みんなザワッとするんですよね。
「あっ、来たぞ!」って言って。

岩田

「隣町に××が入ったぞ」とか聞くと、
遠方でもわざわざ足を運んでまで遊びに行く熱量が
当時のゲーム好きのみんなには、ありましたよね。

神谷

中学の頃の話に戻るんですけど、
さっき言った駅前のゲーセンは学区外で、
子供だけで行ってはいけない校則があったんです。
唯一、学校の近くにあるバッティングセンターに
小さなゲームコーナーがあって、
遊ぶとしたらそこしかなかったんですけれど、
1プレイ100円だったんですね。
ゲーセンは50円なのに・・・。

岩田

その差は大きいですね(笑)。
「校則を守って100円か、危険をおかして50円か?」
で、迷うわけですか?

神谷

そうですね。最初はみんな仕方なく、
バッティングセンターに行ってたんです。
ところが中2の時、町田君っていう、
転入生がやって来たんですね。
町田君は都会からやってきた子で、
ちょっとアカぬけた感じの子供なんですけど。

岩田

はい。

神谷

ちょうどその頃、バッティングセンターに
『ドラゴンバスター』(※17)が入ったという情報を
キャッチしたんですよ。
それで「土曜日にやりにいこうぜ」って
仲間同士で示し合わせていたんです。
その時に「マッチも行こうぜ」って、
町田君にも声をかけたら、彼が
「バッティングセンターは高いからゲーセン行こうぜ」
って、当たり前みたいに言うんですよ。
それで僕らみんな、ざわめいてしまって。

神谷3
※17
『ドラゴンバスター』=ナムコ(現バンダイナムコゲームス)が1985年1月にアーケードでリリースしたアクションゲーム。1987年1月にはファミコンにも移植された。

岩田

ははは(笑)。

神谷

当時の自分たちにとって、
「ゲーセンは不良が行くところ」みたいな
イメージがあったんですね。
だからみんな最初動揺したんですけど、
同時にワルにあこがれる
気持ちもあるじゃないですか。
それで結局「マッチ、連れてって」って言って
マッチの行きつけのゲーセンに・・・。

岩田

あっ、行きつけがあったんですか。
どっちが転校生だかわからないですね(笑)。

神谷

来てからちょくちょく、行ってたんでしょうね。
それでドキドキしながら、
マッチの行きつけのゲーセンに行ったんです。
それでアドバタイズデモ(※18)を見ながら、
「どのゲームやろうかな」って悩んで。
50円とはいえ貴重なおこづかいなので、
後悔しないよう、人のプレイも見ながら
頭でシミュレーションして熟考していたんです。

※18
アドバタイズデモ=ゲームがプレイされていないときに表示される、ゲーム中のデモシーンなどを指す。

岩田

その時間も楽しいんですよね、振り返ると。

神谷

そうですね。でもそうこうするうちに
外が暗くなってきて「もう帰ろうぜ」って、
誰かが言い出したんです。
ところが僕はまだ吟味だけで
何も遊んでなかったので、
「ちょっと待って、ひとつだけやらせて」
って言って、待ってもらって。

岩田

はい。

神谷

その時はじめて遊んだのは、
いちばんルールがわかりやすかった
『ロードファイター』(※19)でした。
あれが、僕のゲーセン初コイン投入でした。
その日はそれ1回だけやって帰ったんですけど、
それから毎週土曜はゲーセンの日になりました。

神谷4
※19
『ロードファイター』=コナミが1984年にアーケードでリリースしたレースゲーム。真上からの視点でコースが表示され、高速スクロールする道路を疾走し、敵車や障害物を避けながら燃料切れになるまでにゴールを目指す。

岩田

タガがはずれて、
ゲーセンの味をしめたわけですね。

神谷

まあ、それで勉強もしないで、
案の定高校入試に失敗するわけですけれど。
でもその予備校時代の1年がとにかく濃くて、
それが高校生活にも引き継がれた感じでした。

岩田

なるほど。でもそんなふうに
ゲームを人生の一部として遊びこんだことが、
確実に財産になっていますよね。

神谷

なってますね。たとえば
集めたアイテムを画面に表示する場合、
単にアイテム名を列記するだけじゃなくて、
『ドルアーガの塔』(※20)みたいに
アイテムのグラフィックをズラッと並べたほうが、
圧倒的にワクワクするじゃないですか。
そういう直感的なわかりやすさや美学を、
昔のシンプルなアーケードから
知らずに学んでいるところはあると思います。

※20
『ドルアーガの塔』=1984年7月にナムコ(現バンダイナムコゲームス)よりアーケードでリリースされた、アクションゲーム。1985年8月にはファミコンにも移植された。60階建ての塔の各フロアに隠されたアイテムを、条件を満たし謎を解くことで収集し、最上階に幽閉された王女を助けるのが目的。ゲームデザインは『ゼビウス』を手がけた遠藤雅伸氏が担当。

岩田

そういうことは意外と、
何となく遊ぶだけではなかなか気づかない
ことだと思うんですよ。
だけど一方でちゃんと理解できると、
いま神谷さんが語られたように
自分の中で整理された状態で、
引き出しからすぐ出し入れできるんです。
神谷さんはどうやって
そんな視点を持つようになったんですか?

神谷

うーん。いや、僕は変わってないですね。

岩田

最初から引き出しに入っていたんでしょうか?

神谷

いえ、たぶんちゃんとした引き出しには
いまも入ってないんです。
たとえば『ビューティフルジョー』(※21)をつくるとき
自分でマップをつくったんですけれど、
最初はぜんぜん、楽しいものがつくれなくて。

※21
『ビューティフルジョー』=2003年6月にカプコンよりゲームキューブ用ソフトとして発売された横スクロールアクションゲーム。デフォルメされたアメコミ調のグラフィックや、VFXアクションと呼ばれる時間や空間を操るアクションが特徴で、シリーズ化およびテレビアニメ化もされている。

岩田

『ビューティフルジョー』は
ゲームキューブ向けにつくられた
完全新作アクションでしたよね。

神谷

はい。当時カプコンで上司だった三上さん(※22)から、
「企画マンとしてひとりでやってみろ」という
指令を受けてはじめた開発タイトルでした。
その前にかかわっていた『バイオ2』(※23)
『デビルメイクライ』(※24)
大所帯のチームでつくっていたので、
自分が企画を立ててすみずみまで
つくるというのははじめての経験でした。

※22
三上さん=三上真司さん。元カプコン第4開発部部長。『バイオハザード』シリーズ4作目までのディレクター、プロデューサーを歴任。現在は、Tango Gameworks エグゼクティブプロデューサー。
※23
『バイオ2』=『バイオハザード2』。1998年1月にカプコンより発売されたホラーアクションアドベンチャー。
※24
『デビルメイクライ』=2001年8月にカプコンより発売されたアクションゲーム。“スタイリッシュハードアクション”と銘打ち、華麗でスピーディな展開で、派手に敵を倒していく演出が話題を呼び、シリーズ化されている。

岩田

ゼロから自分でつくることを、
はじめてそこで体験したわけですね。

神谷

他人が描いたマップを
チェックすることはそれまでもあったんですが、
自分でつくるのははじめてだったんです。

岩田

たぶんそれは、三上さんが、
「神谷さんを育てたい」と思ったことも
大きな理由のひとつなんでしょうね。

岩田03

神谷

それはあるでしょうね。
三上さんもファミコンの8ビット時代を
生きてきた人なので、
比較的少人数で企画から立ち上げる
経験をさせたいという
気持ちはあったと思います。

岩田

なるほど。

神谷

ただ、いざ自分でマップをつくってみると、
僕はあまり物事を合理的に考えずに
感覚でものをつくるタイプだったので、
あとからいろんな矛盾が出てくるわけです。
たとえば最初、ジャンプする足場を
つくったんですけど、結局はぜんぜん使わずに
地面を歩いたほうがよかったりして。

岩田

はい。

神谷

どうもおもしろくないので、
Vフィルム(※25)というアイテムを空中に置いて、
ジャンプさせようとしたんですね。
それで、ジャンプの放物線にあわせて
Vフィルムを置いていったときにふと、
「あっ、これ『スーパーマリオ』の
 コインと同じ仕組みじゃん!」
っていう具合に、あとから気づくんです。

※25
Vフィルム=ゲームを進めるカギとなるVFXパワーの源となるアイテム。

岩田

ええっ、そうなんですか?
体験自体は未整理のままなんだけど、
試行錯誤しているうちに
昔の体験からヒントがみつかって、
照らし合わせながらつくるわけですか?

神谷

そうですね。
「あのゲームはこうだったから、こうしよう」
というように最初から考えを整理して
つくっていくんではなくて、
本当にその時にハッと気づいて
「あっ、だからあれはこうなっていたのか」
という感じです。そこではじめて、
「オレは遊ばされてたんだ」
というふうに気づくわけです。

岩田

はい(笑)。

神谷

そういう意味では、
『ビューティフルジョー』の開発で
「遊んできたものの中に、大事な答えがある」
ということを、あらためて実感しました。
それがあってからは遊びの構造を
以前より強く意識するようになりましたね。