社長が訊く
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社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇

社長が訊く『ニンテンドー3DS』ソフトメーカークリエーター 篇

第16回:『真・三國無双 VS』

目次

2. “3D格闘ゲームの群雄割拠時代”

岩田

そうやって『信長の野望』に出会って、
必然的に今度はゲームをつくる立場に・・・
というふうになっていくんですか?

小笠原

ええ。でもこのときは
かなりまっしぐらになっていて、
ゲーム業界というよりは、
「コーエーで『信長の野望』をつくるんだ!」と・・・(笑)。

岩田

ああ、もう直接コーエーさんを望んでおられたのですね(笑)。
実際にコーエーさんに入社されてゲームをつくる立場になって、
どんな仕事をされていたんですか?

小笠原

最初に配属されたのは、
アーケードゲームにチャレンジするチームでした。
「『信長の野望』をつくる!」
っていう気持ちで入社しただけに、
配属が決まった日には正直、
相当落ち込んだんですが(笑)、
ただ、いろんなことに興味があるものだから、
実際につくって、自分で考えたものが
テレビに映って動いているのを見たら、
「ゲームづくりって本当におもしろいなあ!」って、
思うようになりました。

岩田

ジャンルがなんであろうと、
おもしろさには共通点があって、
自分がつくったもので人の心が動くさまを見たら
おもしろいと思われたんですね。
『信長の野望』がなかったら
コーエーさんに吸い寄せられていないし、
コーエーさんに入ってみたら、
ゲームづくりのおもしろさを発見できたんですね。

小笠原

はい、基本的にゲームが好きでしたので。

岩田

小笠原さんは、配属先のチームで
ゲームのどの部分を担当されていたんですか?

小笠原

入社当初はプランナー志望だったんですけど、
研修を経て配属されたら、
プログラマーになっていました。

岩田

理系出身だからでしょうか?

小笠原

研修過程の結果なのかもしれないです。
ただ、「ゲームをつくるうえで、プログラマーの
知識は絶対にあったほうがいい」
と言われていたので、抵抗なくはじめられました。
でもじつは、配属から6カ月くらい経ったあと、
ひとつ代が上の鈴木(亮浩)(※8)と一緒に、
PCゲームをスーパーファミコンに移植する
プロジェクトを任命されて、
わたしが企画担当になったんです。
だからプログラマーとしては半年ぐらいで、
その後はプランナーになりました。

※8
鈴木亮浩さん=株式会社コーエーテクモゲームスの執行役員。『真・三國無双6』や『無双OROCHI2』などのプロデューサーをつとめる。

岩田

そのとき、師匠のような方はいらっしゃったんですか?
それとも独学で、先輩たちを見ながらやっていったんですか?

小笠原

当時は、先輩を見て覚えるかたちでした。
でも移植とはいえ、
1年目と2年目のふたりだけでやるというのは・・・。

岩田

ちょっと・・・無茶ですよね(笑)。
でも当時は、無茶ってことがわかる間もなく
必死でやられていたんじゃないですか?

小笠原

そうですね。

岩田

でも、一方で、それは“幸運”とも言えるんですよね。
そんなチャンスをいきなり任せてもらえるわけですから。

小笠原

そうなんです。
入って1年目でメインプランナーとして
何でも自分で考えられるなんて、
振り返るとものすごくラッキーなことでした。

岩田

だれにも教わらなかったので、
効率は悪かったかもしれませんが、
道なきところに道をつくっていくことの大変さが
骨身にしみてわかっているぶん、
未来が不確実なときに「先頭を歩いてくれ」と言われて
いま歩けるのも、そういった経験のお陰なんですよね。
それでプランナーになったあと、
どのような仕事をされたんですか?

小笠原

スーパーファミコンの移植を2作担当したあと、
3つ目のプロジェクトが
プレイステーションでアクションゲームをつくることだったんです。
当時、コーエーのゲームは歴史シミュレーション、
競馬、リコエイション(※9)がメインだったんですけど。

※9
リコエイション=REKOEITION。コーエー(現コーエーテクモゲームス)が提唱するコンピューターRPGとシミュレーションゲームの概念が融合したコンピュータゲームの総称。『維新の嵐』シリーズ、『大航海時代』シリーズなど。

岩田

いままでの強みとは違うところで、
新しいものを開こうと思ったんですね。

小笠原

はい。当時はいろんなものに
挑戦することが会社の方針でしたので、
アクションゲームにチャレンジすることと、
当時アーケードで主流だった3Dの技術を研究して、
プレイステーションで3Dゲームにチャレンジしました。

岩田

「アーケードでできている3Dの技術に追いつけ!」
というのが、家庭用3Dマシンの初期のころでしたからね。

小笠原

まさにその流れでつくった企画が
『真・三國無双』のベースとなる、
『三國無双』(※10)という3D対戦格闘ゲームです。

※10
『三國無双』=1997年2月に発売された、三国志の世界を題材とした3D対戦格闘ゲーム。

岩田

当時、ゲーム業界では
格闘ゲームを3Dにしていく流れがあって、
いわば“3D格闘ゲームの群雄割拠時代” のような
状況がありましたよね。
“真”がつく前の『三國無双』も、
その中で生まれたタイトルですね。

小笠原

そのとおりです。
そのときに、いままでとは違うことをやるので、
シブサワ・コウやフクザワ・エイジ(※11)のように
新しい制作チーム名を決めることになって
生まれたのが“ω-Force(オメガフォース)”です。

※11
シブサワ・コウやフクザワ・エイジ=シブサワ・コウは『信長の野望』『三國志』シリーズなどの歴史シミュレーションゲームを、フクザワ・エイジは『太閤立志伝』シリーズや『英傑伝』シリーズなどリコエイションゲームを手がける。どちらも本名はコーエーテクモゲームス代表取締役社長の襟川陽一氏。

岩田

オメガフォースの名前の由来、前から知りたかったんです。

小笠原

あんまりかっこよくないんですけど(笑)。
当時、オメガフォースがいた部署を
ソフトウェア4部と言いまして、その部長が
「Zとかいて“ズィー”っていうのはどう?」と。
でも、まあ、目薬と間違えそうですよね?

一同

(笑)

小笠原

「何かちょっと、ピンときませんよね・・・」って、
やんわりかわしつつ(笑)。
じゃあZはアルファベットで最後の文字だから、
ギリシャ文字に変えて“オメガ”はどうか、と。
でもオメガだけだと、今度は時計になってしまうので、
ソフトウェア4部なので“4th”にして、
それをかっこいい“力”という意味の“フォース”に変えて、
“ω-Force(オメガフォース)”という名前に決まったんです。
意味としては「コーエーの最終兵器」というイメージです。

岩田

なるほど。
ネーミングの話って、ドラマがありますねぇ(笑)。