3. 任天堂から誘いを受けて

岩田

ケンカができるような
素晴らしい仲間に恵まれた小田部さんが
どうして、アニメーションの世界から
離れることになったんですか?

小田部

アニメーションというのは、
同じところでいつまでもつくり続けていると、
水がよどむような感じになってくるんです。
それに、気の合う仲間とずっといっしょに
つくり続けられるわけでもありませんので、
会社を離れることにして、
フリーの立場で仕事を受けるようにしたんですね。
ところが、フリーと言うから
それは自由なのかもしれませんけど、
つくるところが作品の核じゃないわけですよ。
ある部分だけの仕事とか。

岩田

断片の仕事を請け負うようになったんですね。

小田部

気が楽なんだけど、おもしろみがない。

岩田

しんどいけどおもしろいか、
気は楽だけどおもしろくないかになっちゃうんですね。

小田部

そんなときに、池ちゃん・・・
池田(宏)さんですね。彼から話があって・・・。

岩田

池田さんは、すでに任天堂を退職されましたけど、
昔、宮本さんの上司だった方ですね。

小田部

池ちゃんも東映動画の同期なんです。

岩田

えっ、そうだったんですか!?

小田部

だから、池ちゃんと呼んでいるんです。
彼のほうが年が上なんですけど、
池ちゃんともよくケンカをしましてね。
彼が監督、僕が作画監督をやった
「空飛ぶゆうれい船」(※8)をつくったときとか。

※8

「空飛ぶゆうれい船」=1969年公開の劇場用アニメーション作品。東映動画制作。

岩田

そうだったんですね。
それでは宮本さん、お待たせしました。

宮本

はい。

岩田

池田さんは、宮本さんが
入社何年目のときの上司だったんですか?

宮本

確か7〜8年目でしょうか。
『スーパーマリオブラザーズ』(※9)
つくっていた前後の頃ですね。
池田さんは僕にとって
すごく大らかに泳がせてくれた上司で
初代の情報開発部長でした。

※9

『スーパーマリオブラザーズ』=1985年発売のファミコンソフト。アクションゲーム。

岩田

小田部さんは
池田さんからどのように誘われて
任天堂に入ることになったんですか?

小田部

先ほども言いましたけど、
僕がフリーで、おもしろくない時代だったんですね。
そんなときに池田さんと喫茶店で会って、
任天堂に来ないかと誘われたんです。
これからのゲームというのは、
どんどんアニメーションのノウハウが
必要になってくるからと。

岩田

事実そうだったんですよね。
アニメーションのことをちゃんとわかっている人は、
あの当時、ゲーム業界にはほとんどいませんでしたし。

宮本

そもそも僕自身、
アーケードゲームの『ポパイ』(※10)をつくるとき
アニメを1コマ、1コマ止めながら、
それを見て、自分で描いていましたし。

小田部

そんなこともやってたんですね。

※10

『ポパイ』=1982年に登場した任天堂のアーケードゲーム。ファミコン版は1983年に発売。

宮本

犬や人が走っている映像をコマ撮りした、
すごく有名なアニメーションの写真の本がありましたよね。
僕は美大にいたにも関わらず、
その本をあまり使ったことがなかったんですけど。

小田部

How to Draw本ですね。

宮本

そうです。
僕もパラパラマンガからずっと好きだったんですけど、
自分でアニメーションを動かせるようになるとは
思ってなかったので、そこからにわかにはじめて。

小田部

アニメーションの世界でも
そういった本を見て、一生懸命勉強するわけです。
なめらかな動きとかね。ですけども、
だんだんそれが必要とされなくなってきちゃって。
枚数を落としますから。

岩田

なるほど。商業ベースのTVアニメは、
1秒あたり数コマしか使えない世界で。

宮本

動かないコマもありますしね。

小田部

そういうこともあって欲求不満になったんです。
そんなときに、池ちゃんから、
任天堂に入って、アニメーションで
何かアドバイスをしてほしいと言われたんです。
でも、僕はゲームなんて見たこともないし、
唯一知ってたのがインベーダーゲームで(笑)。

岩田

インベーダーゲームは、やっておられたんですよね。

小田部

いや、人がやっているのを見ただけ(笑)。
だから、なぜゲームにアニメーションが必要なのか、
わからなかったんですよ。

宮本

それはそうですよね。

小田部

だけど、アニメーションが
役に立つんだったらいいですよと。
でも、任天堂にいるのは、
1年か2年のつもりだったんです。
それが、21年ですよ(笑)。

一同

(笑)

宮本

でも1年や2年じゃやっぱり無理でしたね。
当時はまだ、小田部さんに動かしてもらえる環境が
ゲームの世界にありませんでしたし。

岩田

小田部さんが来られることになったとき、
宮本さんはどう思ったんですか?

宮本

「それはありえないでしょう」という感じでした。
僕はもともとマンガが好きで、
アニメーションもよく見ていたんですけど、
小田部さんのお名前を知っているほど
詳しくはなかったんです。
ところが、現役のアニメーションおたくが1人いましてね。
彼が小田部さんの名前を聞いただけでふるえたんですよ。

小田部

ウソでしょう(笑)。

宮本

いや、いっしょに会ったときも、
緊張のあまりふるえていました(笑)。
小田部さんにお会いする前に、
「魔法使いサリー」とか「新・巨人の星」などを
描いておられた香西(隆男)さんを
池田さんから紹介されたことがあるんです。

小田部

香西さんも東映動画出身ですね。

岩田

そうなんですか。
つくづく任天堂は、東映動画OBの方々の
お世話になっているんですね(笑)。

宮本

『パンチアウト』(※11)の絵を
香西さんに描いていただいたり、
外部のプロの方に協力いただくような機会が、
少しずつ増えていたんですけど、
小田部さんの場合は任天堂に入って働かれるというので
「本当にいいんですか」と(笑)。

※11

『パンチアウト!!』=1983年に登場した任天堂のアーケードゲーム。

岩田

突然、本物の人がやってきて、
受け入れる準備もできてないんですからね(笑)。

宮本

で、僕らの絵を最初に見たとき、
どう思われたんですか?

小田部

絵じゃなくって、
ゲームを見せてくれたんです。
『スーパーマリオブラザーズ』を。

宮本

ああ、そうでしたね。

小田部

僕は『スーパーマリオブラザーズ』で
マリオがいろんな動きをしているのを初めて見て、
本業のアニメーションが忘れ去っていくものを
ゲームがやっているんだと思ったんです。

岩田

あの当時でも、動きも含めて
いろんなことができていましたからね。

小田部

まだそこには表現されていないかもしれないけど、
これからやろうとしていることは
すごく理解できたんです。
ところが、入社してからしばらくは、
アニメーションの仕事は何にもしなかったんですよね。

宮本

そうでした(笑)。

小田部

毎日会社に来ては、自由に発想して
ラクガキばかり描いていました(笑)。